さて、特集記事「フレア団編…サトシ達は絆の夢を見るか?」の5回目となる今回は、フラダリの具体的な思想の内容や理由が分かったところで、その歪んだ所をついて書いていきたいと思います。

ある意味まとめみたいなものですが、続きからどうぞ。

さて、フラダリの主張の中で僕が最も注目している所というのは、人間の真理を一部突いている発言をしているという所なんです。
フラダリはいくら人々を助けたとしてもそれを当たり前と思い、要求がもっと大きくなって傲慢さを招く事になる…こう認識しているからこそ世界をリセットしようと思ったわけです。

この事は結構考えさせられるものがありました…人間の負の部分というのは、こういうリアルではないアニメの世界で全面に押し出されると、どうにも歪なものに見えてしまうからです。
アニメの世界はリアルではできない事が作画などで出来たりして、不可能を可能にするという意味では最適と言われています。
なので正義漢に燃えるヒーローがいて、単純悪な悪役が存在する…という単純な構図を成り立たせる事ができるんです。

ですがそこに性悪説に近い「リアルな悪」が入り込んだらどうでしょうか?
その人々は何も犯罪を犯しているわけではありませんし、道徳的に間違った事をしているわけではありません。
ですが人間の本能のままの行動をそのままの形で受け取ると、犯罪やモラルの侵害よりもタチの悪いリアルな負としてあり続ける事になります。
この事は人間自身の考え方というよりは、環境や心の持ちように依存するのですが…全くもって欲というものは恐ろしいものだと感じるばかりです。
それを勧善懲悪が普通に成り立つアニメというある種虚構の世界でやるわけですから…
アニメのフラダリが原作のように罪悪感を感じる事なく、計画を怒りの中で進めているのも分からない話ではないというわけです。

自分は慈善事業として助けたのにも関わらず、それを仇として返す事になる人間の負の部分…この積み重ねが募ればいずれ世界は戦争をし、どの道滅びる事に繋がります。
その前に自分が世界を壊して少数精鋭の中で理想の世界を作ろう…人間の負の真理を見出した、という意味ではこのフラダリの言い分も分からなくもありません。

ただやっぱり、こうした人間の真理を持ってきたとしても僕は、フラダリのやろうとしている事は傲慢と思う所があるわけです。
その理由はいくらが存在しますが…ここでは重要な2つに絞って書いていきたいと思います。

まずは人間の定義を自分の主観で狭めてしまっているという点です。
人間が欲の無くならない恐ろしい生き物だ…その認識は間違ってはいません。
何せ人によってではありますが、自分の思う通りに行かなければ「消えてしまえば良い」と人の命を奪おうと考える人もいるわけですから、どこまでも負の要素というのは人間からなくなる事はないわけです。
ですがその面ばかり見過ぎて他の一面が見えなくなって「良さ」に気づく事がなかった、という事は本当に致命的だと思うんです。

現に、この時のフラダリの回想からも「困った人達を助けた」とあるだけで、決してその前に人間の良い所を他に見ていて裏切られた、というわけではありません。
裏切られたのならまだ、世界を崩壊させる程ではないにしろ多少の同情の気持ちはあったのですが、ここではそれすらない為、綺麗な形で視聴者は嫌悪感をフラダリにベクトルとして向ける事ができている、というわけです。
人間の多面性は「愚か」の一言だけで片付けられる存在ではありません。
要求する中でも、もしかしたら精神的余裕がなくなっていてこういう感情にならざるをえなくなっているのかもしれない、言いたくても主張できずに後ろでただ見ているだけの人もいるかもしれない…本当に色々な形が想像できます。

なのにも関わらずフラダリは、「負の部分」ばかりを目の当たりにしてそれを全てだと思い込んで、一面生に過ぎないのにも関わらず、そこが気に食わないから世界丸ごと壊そうとしている…れっきした傲慢と言う事ができるでしょう。
ただ切り捨てる事なら誰だってできます、大事なのは人間の負の部分も受け入れた上で、どう生活を改善していけるかにかかっているわけです。

それができれば、世界を壊さなくても人々が純粋な形で助け合える社会を作る事ができるんです。
フラダリのやろうとしている事は現実で言うなら、北朝鮮の子供な所に憤りを感じて核を投下するという事です。
これ以上は僕の守備範囲外なので詳しい事は避けますが…何でもかんでも壊す事が果たして最大多数の意味ではない、本当の意味での全人類の平和に繋がるのか?という話ですよね…答えは自然と出てくると思いますが。

そして2つ目はフラダリは自分の事を聖職者かなんかと勘違いしているという点です。
確かにフラダリが過去にした慈善事業というのは、災害などで困った人達を救ったという意味で本当に大事な話です。
ですがその先が続かなかった事をその人間の負の側面のせいにして、自分の姿勢は慈善事業をするにあたっての致命的な欠点を棚に上げているんですよ。

これはコメントを見てハッとさせられたのですが、この時のフラダリは慈善事業を「してあげた」と思っている節が強いのではないでしょうか。
困っている人が居たから助けた、という事の延長線上に来るのが、無意識のうちの自己満足感です。
これというのもある種人間の真理の1つで、人間の他人にする親切な事というのは、元を辿れば自己満足の延長線上です。
ただし、それを突き詰めればいつしか自己満足感は薄れ、他人を思いやる事ができるというわけです。
フラダリの行動は、人間の負の側面ばかり目が行っている時点でもう、「自分は助けてあげたのに、なんでこれ以上人は物を求めてくるのか?」という疑問を抱き、聖職者気取りの部分が出てくるわけです。

慈善事業をするのであれば、そのベクトルは必ず相手へと向かなければいけない…自分の中だけで止まってしまっているのであれば、それは簡単に負の要素が出てしまう事に繋がりますよ、という事です。
しかも世界を破壊して自分が頂点に立とうとする考え方も、自分が負の要素を直接受けた事によって、目に見える形の「純粋な力」やフレア団員しか信用していない異常性を表しています。

特にフレア団員しか信用しない事に関しては、結果としてなんの個性もない灰色の社会となって、子孫繁栄の意味でも社会維持はかなり厳しい事になるのは目に見えています。
そんなリスキーな中でも上に立ちたいと思うその気持ち…いなくなっていく一般市民を置き去りにしたという意味でも、かなり傲慢と捉える事ができる、というわけです。

このフラダリの傲慢さに比べてサトシはどうでしょうか?
19年間旅をして、色んな経験や挫折など負の事も経験しながらしてきて…だからこそこの世界への感謝を誰よりも示してきました。
だからこそはっきりと「この世界が好きだ」と言い切る事ができますし、自分の力を絶対視せずに他の人に委ねるという側面も持ち合わせているわけです。
他人に頼るという事は、それだけ人間の多面性を肯定しているという事ですから、人間の負の部分だけ見るのではなく、負の部分も受け入れてそこから先を見据える事ができる人と定義できるわけです。
そうでなければ、セレナやシトロンを中心とした成長劇にサトシが多大な影響を与える、という事は起こらないと思うので。

その意味でも、フラダリを止める事ができるのはサトシのみ、と捉えてもおかしくないのかもしれません。
負の側面も全部ひっくるめて「人間」である事を認め、そこからの改善を狙うとしたら、その事を一番良く知っているであろうサトシしかいないわけですから。
だからこそ、次回以降にあるであろうフラダリへの決定的なサトシの突きつけが楽しみ、というわけです。

と、いうわけで一通り書き終わりましたので、ここでこの記事を終わりたいと思います。
次回は来週の話に準じて、シトロンとシトロイドの話などをしたいと思います。
お楽しみに。