さて、今回の2026年夏クールの新作感想枠は、世阿弥の幼少期の鬼夜叉だった頃の話をモチーフとしているだろう漫画「ワールド イズ ダンシング」のアニメの感想を書いていきたいと思います。
正直スタッフ陣に関しては馴染みがないのでスタッフ陣を語る、という事はしないとは思いますが、かなり気合を入れて作られてはいそうなので、そこは楽しみに見たいと思います。
それでは続きからどうぞ。
正直スタッフ陣に関しては馴染みがないのでスタッフ陣を語る、という事はしないとは思いますが、かなり気合を入れて作られてはいそうなので、そこは楽しみに見たいと思います。
それでは続きからどうぞ。
第1話「人はなぜ舞うのか」
脚本:川滿佐和子/絵コンテ:黒柳トシマサ/演出:細間菜瑠/作画監督:落合良亮,福元陽介
「人はなぜ舞うのか」に答えがあるとしたら、「生きているから」というものになるでしょうか。
という、後に世阿弥になる鬼夜叉が大成していくまでの物語、という感じになりそうですね。
世阿弥というとそれこそ日本史でも習うレベルの人物で、それを漫画向けに落とし込むとどうなるか、とは思っていましたが、描き方としてはかなり現代向けにされていますね。
父親である観阿弥からは息子として、というよりは「この人間は芸をやるに相応しい人物か」としてしか見られていない(実際、抜け出そうとしている事に気づいてもスルーするくらいには、親としての干渉はゼロに等しそうだったので)故、本来この時代の娯楽であろう「舞」に対して「押し付けられている物、自分を自分として見てくれない物」と認識して、存在意義すら疑問視しているレベルになっていると。
なので、興行の場であっても存在意義について考え、石也から注意されても全く聞かずに河原でコガネとでたらめを言って遊ぶことが一番の楽しみになっている感じは、上から押し付けられることを良しとせず、自分のアイデンティティを模索している感じが出て、それが多様性の現代にマッチしているというわけですね。
普通なら石也の「観阿弥の舞は世界を変える」という言葉に、一般観衆のように心を動かされるのでしょうが、それが押し付けられている物である以上、そこに「良さ」や「肯」を感じないのは、この時点で娯楽の1つを縛られているので、人と感性が違うのは分かる話です。
でも周りからは「顔は良い」というように見られて、恵まれているけど抜けてるねぇ、みたいな見方をされているわけですから、それは理解してくれる人が存在しないので、そこは難しいなとは思いました。
「若」ではなく「鬼夜叉」と呼ばれて初めてボーっとしていた所が取れたのも、「自分」を「若」に見出していないからだろうな、とは思いますし。
そんな状態の鬼夜叉が「舞」について考えるためのインパクト、として白拍子の最早線画で全てを描き切った舞が出てくるわけですが、これの振り付けとこれだけの為のコンテ演出を設ける時点で気合の入りようが違いましたし、
最初に観阿弥のきっちりとした舞を見せてから、そもそも描き方が違うものであり粗さも相当ある白拍子の舞を見せる事で、「良い意味での異物感」を引き出しつつそれでも「良い」と鬼夜叉に思わせるだけのものを魅せる事に成功していたと思います。
これまで鬼夜叉が見てきた「人を引き付ける物、感情のままの物」でもどれでもない、無心に舞う物であるのでカルチャーショックではあったでしょうし、
人を強引に「良い」と思ってもらえるようなものを自分も、と、ここで初めて「人はなぜ舞うのか」についての鬼夜叉の中での答えが少し見えたのも、1話の結びに相応しかったと思います。(それに誘導したように見えるのが犬王、というのがまた、という気がしています。映画の「犬王」を知ってるとこれとも違う描かれ方がしているのは面白いですが)
僕は最初に「人はなぜ舞うのか」の答えの1つに「生きているから」と書きましたが、これは白拍子の舞を見て思った事ではあります。
人間は舞うように骨格が作られていないけれども、それでも舞うという事は、そこにこれまでの生き様が全て載せられて舞っている、という事ですから。
しかしその強烈な自分を舞に込めていたような白拍子の声を、「違国日記」で自分を強く持っていた槙生の声と同じ沢城さんというのが、もうこの人はその枠なんだろうな、というのは感じた次第です。
というストーリーラインの感想としてはこんな感じですが、絵作りとしては「Cygames」からの分家であり、丁度去年は「光が死んだ夏」を作ったCypic制作という事で、相当メリハリが効いていた1話だったと思います。
南北朝の話なので、全体通してかっちりした作りになるのかな、と思ったら、話の作り方が現代的なのもあって結構デフォルメ表現が印象に残りましたね。
そこは白拍子のあれと含めてその時の描写に応じた演出方針を打ち出していくという感じに見えましたので、このメリハリについては今後も見ていきたいと思います。
という感じで感想はここで終わりにしたいと思います。
脚本:川滿佐和子/絵コンテ:黒柳トシマサ/演出:細間菜瑠/作画監督:落合良亮,福元陽介
「人はなぜ舞うのか」に答えがあるとしたら、「生きているから」というものになるでしょうか。
という、後に世阿弥になる鬼夜叉が大成していくまでの物語、という感じになりそうですね。
世阿弥というとそれこそ日本史でも習うレベルの人物で、それを漫画向けに落とし込むとどうなるか、とは思っていましたが、描き方としてはかなり現代向けにされていますね。
父親である観阿弥からは息子として、というよりは「この人間は芸をやるに相応しい人物か」としてしか見られていない(実際、抜け出そうとしている事に気づいてもスルーするくらいには、親としての干渉はゼロに等しそうだったので)故、本来この時代の娯楽であろう「舞」に対して「押し付けられている物、自分を自分として見てくれない物」と認識して、存在意義すら疑問視しているレベルになっていると。
なので、興行の場であっても存在意義について考え、石也から注意されても全く聞かずに河原でコガネとでたらめを言って遊ぶことが一番の楽しみになっている感じは、上から押し付けられることを良しとせず、自分のアイデンティティを模索している感じが出て、それが多様性の現代にマッチしているというわけですね。
普通なら石也の「観阿弥の舞は世界を変える」という言葉に、一般観衆のように心を動かされるのでしょうが、それが押し付けられている物である以上、そこに「良さ」や「肯」を感じないのは、この時点で娯楽の1つを縛られているので、人と感性が違うのは分かる話です。
でも周りからは「顔は良い」というように見られて、恵まれているけど抜けてるねぇ、みたいな見方をされているわけですから、それは理解してくれる人が存在しないので、そこは難しいなとは思いました。
「若」ではなく「鬼夜叉」と呼ばれて初めてボーっとしていた所が取れたのも、「自分」を「若」に見出していないからだろうな、とは思いますし。
そんな状態の鬼夜叉が「舞」について考えるためのインパクト、として白拍子の最早線画で全てを描き切った舞が出てくるわけですが、これの振り付けとこれだけの為のコンテ演出を設ける時点で気合の入りようが違いましたし、
最初に観阿弥のきっちりとした舞を見せてから、そもそも描き方が違うものであり粗さも相当ある白拍子の舞を見せる事で、「良い意味での異物感」を引き出しつつそれでも「良い」と鬼夜叉に思わせるだけのものを魅せる事に成功していたと思います。
これまで鬼夜叉が見てきた「人を引き付ける物、感情のままの物」でもどれでもない、無心に舞う物であるのでカルチャーショックではあったでしょうし、
人を強引に「良い」と思ってもらえるようなものを自分も、と、ここで初めて「人はなぜ舞うのか」についての鬼夜叉の中での答えが少し見えたのも、1話の結びに相応しかったと思います。(それに誘導したように見えるのが犬王、というのがまた、という気がしています。映画の「犬王」を知ってるとこれとも違う描かれ方がしているのは面白いですが)
僕は最初に「人はなぜ舞うのか」の答えの1つに「生きているから」と書きましたが、これは白拍子の舞を見て思った事ではあります。
人間は舞うように骨格が作られていないけれども、それでも舞うという事は、そこにこれまでの生き様が全て載せられて舞っている、という事ですから。
しかしその強烈な自分を舞に込めていたような白拍子の声を、「違国日記」で自分を強く持っていた槙生の声と同じ沢城さんというのが、もうこの人はその枠なんだろうな、というのは感じた次第です。
というストーリーラインの感想としてはこんな感じですが、絵作りとしては「Cygames」からの分家であり、丁度去年は「光が死んだ夏」を作ったCypic制作という事で、相当メリハリが効いていた1話だったと思います。
南北朝の話なので、全体通してかっちりした作りになるのかな、と思ったら、話の作り方が現代的なのもあって結構デフォルメ表現が印象に残りましたね。
そこは白拍子のあれと含めてその時の描写に応じた演出方針を打ち出していくという感じに見えましたので、このメリハリについては今後も見ていきたいと思います。
という感じで感想はここで終わりにしたいと思います。

コメント